2026年3月29日、川越市シルバー人材センター主催のウォーキングイベント「川越城と河越夜戦めぐり」が開かれました。折から満開の桜の下、ガイドさんの説明を聞きながら、川越城周辺と、1545~6年扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍のが北条氏と戦った、河越夜戦の舞台となった東明寺などを訪れました。

蓮馨寺:北条の三つ鱗紋と徳川の葵の紋


本殿前の賽銭箱に紋が2つあります。左側は、三つ鱗(うろこ)と呼ばれる(後)北条の紋、右側は徳川の葵の紋。蓮馨寺は北条氏の家臣で川越城の城将となった大道寺政繁の母(蓮馨大姉)が建てた寺。また江戸時代には、徳川幕府から20石を与えられています。最後に回る大善寺も大道寺政繁が母を供養するために開いた寺で、こっちにも北条のご紋があります。
永島家住宅:県内で唯一残る武家屋敷、カラタチの生け垣


この辺は川越城南大手門に近く武家屋敷が並んでいたところ。この屋敷は埼玉県で唯一残っている武家の住宅です。江戸後期には川越藩御殿医、明治時代にも医師の住宅として使われました。川越に多いものとして、坊主、カラタチ、医者、山伏の4つが言われましたが、カラタチは棘があって痛いので武家が外敵の侵入を防ぐのによく植えられました。この家の生け垣もカラタチです。敷地の東側は七曲(ななまがり)と呼ばれる折れ曲がった細い道に面しています。この住宅の内部は今第1・第3土曜日に公開されています。
浮島稲荷神社:片葉の葦の伝説

弁天池に浮かぶ小さな神社が浮島稲荷神社です。なぜ「浮島」なのでしょうか。ここに来るまでだいぶ坂を下ってきましたが、あたりは七ツ釜と呼ぶ湿地帯です。川越城は江戸城と同様、太田道灌が、武蔵野台地の東の端で段差があり東から攻めにくい場所に作りました。

ここには片葉の葦の伝説があります。葦の葉は本来互い違いに生えますが、ここは片方しかありません。ある時城が攻められ、お姫様を逃がすが、姫は足を滑らし岸辺の葦をつかんだが亡くなった。以来その恨みを持って片葉の葦が生えるそうです。
南大手門跡

現在は川越第一小学校の正門が建っていますが、川越城南大手門の跡です。騎馬が真っ直ぐ入れないよう道が曲がっています。この奥には家老屋敷がありました。今、当時の松の木が残っています。
富士見櫓:物見のための櫓

天守閣のない川越城で物見のための櫓の跡地です。上に上がると今でも建物の隙間から富士山が見えるそうです。敷地内に御嶽神社、富士浅間神社、富士見稲荷神社があります。

三芳野神社:童謡「とおりゃんせ」の発祥の地


三芳野天神。祀られているのは菅原道真。城内にあり、「お城の天神さま」とも言われました。童謡「とおりゃんせ」の発祥の地です。「とおりゃんせとおりゃんせ」は「通りなさい通りなさい」の意味です。「ここはどこの細道じゃ」と門の衛兵に聞く。ここは城の城内で、お宮参りに庶民が入るにも厳しかった。「この子の七つのお祝いに」。それで許された。他の時は勝手に来れないのです。「行きはよいよい帰りはこわい」。特に出る時はうるさかったようです。

これから行く氷川神社は地域の鎮守様ですが、三芳野天神は川越城の神さまです。権現造りと言い、拝殿・幣殿・本殿がつながっています。埼玉で残っているのは珍しい。喜多院隣の仙波東照宮も同じ造りです。
川越城本丸御殿:最大9万9千坪の川越城、現存は6分の1


川越城は平山城で、濠と土塁(土手)で区切られています。本丸御殿の現在の建物は江戸時代末期に焼けて1848年に再建されました。川越城は川越城一番広い時で9万9千坪、東京ドーム7つ分の広さがありましたが、残っているのは本丸御殿を含め6分の1ほどです。今本丸西側は川越高校、一の丸、二の丸は美術館・美術館になっています。
三春桜:陸奥棚倉との縁


福島の三春桜です。なぜここにあるのか。松平周防守が、陸奥棚倉から川越に転封されてきたことから川越とご縁があり、苗木をいただいたものです。奥は川越高校のグランドです。川越高校は受験校として有名ですが、映画「ウォーターボーイズ」でも話題になりました。
中ノ門堀跡:矢を射る矢眼

川越城の堀として唯一残されていた中ノ門堀跡を平成20年度に整備しました。中ノ門堀は右手にあった西大手門側から左手本丸方向への敵の侵入を阻む目的で造られました。当時は水も入れていました。角度は、下りる方が30度、上る方は60度あります。白壁のしっくいに穴がありますが、矢を射る矢眼です。
川越祭山下町山車「日本武尊」

川越祭りの山下町山車(だし)「日本武尊」の車庫です。ガラス窓越しに見ることができます。
川越氷川神社:川越の総鎮守、太田道灌の頃からあった矢竹

氷川神社は川越の総鎮守です。城の戌亥(いぬい、北西)の方向に位置します。5代城主松平信綱は城を2倍の広さにしましたが、氷川神社に神輿や獅子頭を寄進し祭礼を奨励したのが川越まつりの始まりです。

神社境内に、太田道灌の頃からあったとされる矢竹がまだ残っています。弓の材料に使う竹で細く長い。
新河岸川の誉ザクラ
氷川神社の裏手を新河岸川が流れています。蔵の町のはずれ、菓子屋横町のさらに西側へわん曲して続きます。川沿いに「誉ザクラ」と呼ばれる100本以上の桜並木があり、この日は桜まつりが開かれています。


田谷堰(橋)

「新赤間川」と標示があります。新河岸川上流部の別名称です。昭和になってから元々の赤間川から分かれた新しい流れを造るための堰が田谷堰です。
道灌橋:近くに太田道灌の屋敷

一説にはこのあたりに太田道灌の屋敷がありました。鯉が泳いでいます。新河岸川舟運でお米などを江戸に運び、帰りに江戸の文化を運んできた。川越の蔵造りは黒い。「江戸黒」と言い、日本橋の商店で黒がはやっていたようです。
河越夜戦までの歴史:扇谷上杉、山内上杉、古河公方の争いに北条氏が加わる
鎌倉から室町時代にかけて、関東では誰が何をしていたかよくわかりません。河越夜戦も正確な記録は残っていない。直接証拠はなく間接証拠を積み上げる形の説明になります。

室町幕府で鎌倉公方だった足利氏が古河に逃げて古河公方となる。北条が西から小田原まで来て東へ迫ってくる。さらに鎌倉の上杉が全部で4家に分かれ、そのうち山内上杉、それと扇谷(おおぎがやつ)上杉が残って争った。長享の乱は両上杉の戦いです。
川越城を作ったのは扇谷上杉臣下の太田道真・道灌親子です。1457年のことで、その時江戸城、岩槻城も作っている。扇谷上杉が古河公方、山内上杉と対抗するための城でした。
80年たち1537年になり北条氏綱が河越城を奪う。これから3代60年北条の時代が続くが、その途中で1545~46年、扇谷上杉は山内上杉、古河公方と一緒に 捲土重来を図る。これが河越夜戦です。
東明寺:激戦の舞台

1537年に負けた扇谷上杉が1545年、仲違いをした兄弟(山内上杉)、さらにその前に争っていた古河にいた足利と手を組んで憎き北条を攻めた。総勢8万5千、うち2万が古河公方だったという。北条側は城内3千、外から8千。しかし、上杉連合軍は一心同体だったかどうか疑問です。そうでないと、これだけの差があり簡単に敗れるか。松本清張の小説「黒い空」でも描かれています。

1545年から46の合戦の時の陣形は、伊佐沼近くに古河公方、砂久保に山内上杉、東明寺に扇谷上杉が位置した。北条の援軍は当然南の小田原の方から攻めてくる。まず山内上杉、次いで伊佐沼の古河公方を蹴散らした。山内上杉は群馬の平井の方まで逃げる、足利は古河に帰る。東明寺あたりは別名東明寺夜戦という言い方もあり、扇谷上杉と北条方で激戦があった。何人がなくなったか。1万6千、3千説もある。行伝寺の過去帳には河越夜戦では2800人ほど死んだと書いてある。その中に扇谷上杉の当主朝定、その部下難波田弾正の名もある。このあたりを発掘すると数百単位、2000くらいドクロが出てきた記録があります。
川越夜戦の後、豊臣秀吉が1590年に小田原の北条を滅ぼし前田利家が川越城を攻め無血開城します。その後は徳川家康が関東に入り、徳川の時代になります。
元々頼山陽が厳島、桶狭間、川越を3大夜戦としてあげました。しかし合戦は午の刻で夜戦ではなかったという説もあります。
大善寺:北条氏ゆかり

蓮馨寺と同様、北条氏の大道寺政繁ゆかりの大善寺です。
