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随想/人生何があるかわからないし面白い(1)自分史の一端・ふるさと回想(上)圓山壽和

1.はじめに/自分史の一端を記す

 70代の最後に入った。70代の前半の頃に比べてもより一層自分を回想する時間が増えている。そのようなこともあり会報等への寄稿依頼やサロンでの卓話依頼されたときはありがたいことだと自分に言い聞かせ、何かを紡ぎ出すことにしている。

 朝起きた時や昼下がりに、何気なく脇の書類棚に手を出し、整理というか積み直しをした時、これまでの人生の歩みの時々で記さざるをえなかった文書やメモを目にし、時空を飛び越えて読み耽ってしまうことがある。午前中の太陽の日差しが差し込む布団の上や、ひとり静かに本の背表紙を眺めている昼下がりの居間でこういう時間を手にした時は何とも言えず満たされた気分になる。

 このような時間は60歳の3月末の川越市役所定年退職前や、その後生計費のため頑張った65歳までの東洋大学川越キャンパスでの嘱託業務に従事していた時は、ほとんど持ち得ない時間であった。その後70歳半ば過ぎまでは中小企業コンサルタントまたは地域サロンコーディネーターとして自称自立した職業人の自覚もあり、中小企業経営者の方々を訪問したり、また主宰している地域サロンの事務局業務で動き回っていた時も、金銭収入が絡んでおり気分的にはなかなか手にすることのできない解放時間であった。

 私の人生の大半が、早くは高校時代の受験勉強の試験問題対策から市役所就職後の職務遂行、そして退職後の仕事の糧探しにとずっと課題に追われてきたからであろう。

 そこでも広義の知識習得や教養の修得、更には人間としての知恵の獲得など幅広な知的な雰囲気は付随していた。しかし大学の単位取得や卒論、就職後の市役所での施策対応、更に自立後の中小企業コンサルタントやサロンコーディネーター業務の場合ですら具体的課題・目標が見えていた。従って大きく構えて、社会や自分と向き合うという余裕は待ち得ないでここまで来たことを感じている。私は知識や教養や知恵を忙しく消化してやってきたことは認めざるを得ない。

 ところでふと読み耽ってしまう書類やメモというのは、どんなものかというと次の類のものである。職務上の宿泊を伴う視察研修の感想文や私に目を掛けてくれた先輩等の声掛けに応じて記した雑誌等への提言・論考、更に壁に突き当たりもがいて記した自分史の一端などである。

 それらを今見るとき、あの時はこんなことを考えていたのかと懐かしくなる。「もっと色んなことをメモしておけばよかったな」の思いに捉われることがある。私は今まで何を追い求めてきたのか、目の前に出てきた興味や関心あることに振り回されてきたのかとの思いに襲われる。ただいつも一所懸命、自分に向き合って来たのだなと自分に寄り添いたい気持ちも湧いてくる。

 今はこれらのことをプラス思考で考えることにしている。そして「人生ここまで来たことに感謝だな、よくやって来た」と周囲の人たちに感謝しつつ、「私の人生はここからかな、これまで以上にあるがままで行こう」の思いを嬉しく受け止め、周囲の人との繋がりに中にある我が人生を楽しく前に進めていけたらと念じている。

 そのようなことも踏まえ、東上沿線新聞発行人の金子豊治郎さんから当新聞へ寄稿しませんかとお声掛けを頂いたこともあり、今回、私の自分史の一端と銘打ち、雑文を寄稿させて頂いた次第であります。

 くどい性分そのままの文章ですが、よろしかったらお読みください。

2.川越に住み着いて53年余り

 回想の突端はどこにするか戸惑う所であるが、やはり今住んでいる川越との出会いから書き出したい。

 昭和43年/1968年4月、東京大学本郷の専門課程(文学部国史学科)に進学後直に遭遇した東大闘争(特に文学部の場合独自の闘争課題もあり2年間ストライキ/受講拒否)に付き合い、6年間過ごした大学生活を昭和47年3月に脱出し、新たな居場所として昭和47年4月に川越市役所に就職した。最初の職場は民生部社会福祉事務所福祉係であった。

 川越市役所に至るまでの経緯を簡単に触れておきたい。

▽卒論を出せて大学脱出/卒業

 文学部のストライキ闘争が昭和45年度末に終焉し、それまで専門課程の単位取得はゼロだったため卒業のための単位取得と卒論提出が必須となった。大学最後の2年間は、田無(現・西東京市)にあった農学部の農園の中の学生寮/田無寮でゆったりと過ごさせてもらった。田無寮での2年目に入り20代も半ばになり、規定の単位も取得し何としても卒論だけは出して高等遊民の如き生活から抜け出し、当たり前の生活者にならなければどうしようもないと思うに至った。

 秋口に入りとにかく卒論を出せば卒業は何となりそうだと思えるようになった頃、就職先について頭がいくようになりいろいろと考えだした。

 ところで当時、卒論では明治維新の地租改正で土地の商品化(農民と土地の分離)が法的にもなされ、日本の地域社会である町や村落に市民社会の萌芽、発展の素地が生まれたことを取り上げていた。そして新たな人間像である自立した個人/市民に基づく市民社会の形成が資本主義社会の発展の基盤として不可欠になった等々のことを雑駁な論理とともにあっちこっちの資料を引用して取り組んでいた。

 とにかく卒論である以上、ある程度の分量も必要であった。はじめに述べた論題が大雑把で大風呂敷を拡げたものであったため、途中で手に負えなくなり自分でも何を言いたいのか消化しきれないまま卒論の形式だけを整えるのに苦労したものであった。専門課程に進学して直ぐに大学闘争が始まり、その後は文学部の教授サイドとは大学のあり方をめぐって2年間もやり合うことに終始した闘争サイドのグループに属していたこともあり、教授たちや早めにストライキをやめた同期のグループとの関係も含め研究室内の人間関係の修復はほとんど不可能な状況であった。

 本来ならば個々の専門領域ごとに演習等で手ほどきを受けるべき教授たちとの繋がりもないまま、無手勝流で取り組んだ卒論で成果も冷や汗三斗のものであった。謙虚に講義の場などを通して種々教えてもらえればよかったし、そうすれば得したなの思いが湧いてくる。教授たちは何かと手を差し伸べてくれていたと思える事象が見えてくる。卒論のレベルはとにかく期限日に出したら後日卒業証書を手渡すから研究室に集まるようにとの連絡が来た。

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▽就職を契機に準地元の川越へ

 そんなこんなで市役所を就職先に選んだのも当時友人たちとの会話の中では、よく「懐の深い市民社会の形成」ということを口にしていたのでそれなりの理屈はあったのであろう。しかし大学から早く脱出したがっていたのが本当であり、それを考えれば一番気持ちの上で無理のなかったのが市役所への就職であったのであろう。

 覚えているのは10月に入り、就職試験の願書の間に合う市役所3カ所(川越市、大宮市、八王子市)に出向き書類を提出したことである。川越市は初雁中学校で学科試験があり、後日の面接試験はどこも総務部長が真ん中にいた。その後、川越市と八王子市からは年内に内定の知らせがあり、結果として翌年4月、準地元の川越市に就職させてもらった。

 川越市も八王子市も人事課の方々は熱心に話してくれたが、川越のほうが高校の3年間もあり馴染みやすかったのかもしれない。深く考えたわけではなかったが、ここ最近、自ら川越のことを準地元と言っているように、当時も私にとっては川越、そして東上線沿線、広く埼玉県西部は心休まるところであったのかもしれない。とにかく小川町に近い川越市役所に入れて一安心であった。

 就職後暫く小川町の実家に世話になり川越市内で借家探しをし、夏の終わり頃、川越市役所の近くに借家し川越人になった。川越に住み着いて53年余りである。

 昭和51年10月に結婚し翌年、長女が生まれ、次女が生まれた昭和56年の30代半ばに市郊外/笠幡地区の日本住宅公団の分譲住宅を購入した。その後一時3年半ほど、少し広い部屋を求めて笠幡駅近くのマンションを借りたが、平成10年3月、51歳のとき現住の川越駅東口から6分歩のマンションを購入し、以来28年近くなる。

 川越市役所には平成19年/2007年3月(満60歳)の定年までいた。退職後は東洋大学川越キャンパス(工学部)で産学連携(ものづくり分野)の中核人材育成講座のコンシェルジュ(受講生募集の橋渡し)に従事した。その後は東洋大学での経験を活かし自称自立し、中小企業経営者の話し相手(アドバイザー)として顧客開拓をし、年金を補い生計を立てて来た。今はフリーになり、地域の旧知のメンバー(高校の同窓生や異業種の集まりなど)に呼びかけ、時事教養サロン等を設け、そのコーディネーター役を軸に日々送っている。

 上記の如く昭和40年3月に県立川越高校を卒業し、川越との繋がりは切れていた。再び昭和47年4月に川越に縁ができたのは、川越市役所への就職が契機である。その後、川越市内で転居は3回したが、住み着いてから53年目に入っている。昨年9月で79歳になったが、実にそのうち53年余りは川越を根拠にした生活である。

 市役所就職にあたってそれなりの理屈はこねくり回していたのかもしれないが、当時の私には本来の風来坊気質は強かったはずである。その私がこんな形で人生の大半を川越で過ごすことになるとは思いもしなかったことは明らかである。そのこと一つとっても、人生何があるかわからないし、面白いものである。(続く)

圓山壽和:地域サロンコーディネーター、川越市在住。

「人生何があるかわからないし面白い・ふるさと回想」目次

1はじめに/自分史の一端を記す
2川越に住み着いて53年余り 
▽卒論を出せて大学脱出/卒業
▽就職を契機に準地元の川越へ
3故郷・小川町のこと、父のこと
▽小川は賑わいのある町だった 
▽井の頭線は知的な刺激の故郷 
▽小学校一年の時亡くなった父
4癒された小川町との再会 
▽まさかの人事に遭遇 
▽仕事一辺倒のツケが来た
▽程よい距離感の故郷・小川町
5藤沢周平は小川町に来ていた