先日、以前から気になっていた山形県の日本海側にある鶴岡市に行ってきました。鶴岡市は江戸時代に庄内藩の藩庁があった山形県第二の中核都市で、日本海に面し、内陸に月山、羽黒山、湯殿山など出羽三山を抱えている歴史都市でもあります。歴史小説がお好きな方は、鶴岡市が時代小説家藤沢周平の出身地で、「蝉しぐれ」や「三屋清左衛門残日録」など藤沢周平の小説に登場する海坂藩(うなさかはん)の城下町が下敷きとなっていることをご存じだと思います。
私はJR新潟駅で上越新幹線に接続する奥羽本線の特急いなほ5号に乗り換え、左手に日本海を眺めながら鶴岡市に向かいました。私が鶴岡市を訪れた10月初めの時期、奥羽本線の右に広がる水田は稲穂の刈入れが進行中で、黄金色と黒色のパッチワークのような景色が続きます。和光市の自宅を出てから約5時間、特急いなほ5号はJR鶴岡駅に着きました。

無くはない東上沿線との縁
鶴岡市を本拠地にした庄内藩は、江戸時代、仙台の伊達藩に並ぶ東北の雄藩でした。庄内藩では、全国有数の穀倉地帯である庄内平野を豊かな自然と人々の努力により作り上げ、最上川を利用して内陸で生産される米や紅花などの産物を日本海に面した酒田に集約、北前船に乗せて京大坂に運び、帰り船で畿内の産品を持ち帰るという活発な経済活動が行われていました。
庄内藩の藩主は酒井家で、元和8(1622)年に信州松代藩から入部した第3代酒井忠勝が初代とされています。驚くことに酒井家は、幕末まで庄内藩の藩主を勤めただけでなく、現在の第19代酒井忠順氏にいたるまで約400年も鶴岡市に居住され、市民と暮らしを共にされていいます。現在の御当主が庄内地域における歴史的建造物を集めた致道博物館の理事館長を勤められ、職員と一緒に作業されている姿がよく拝見できるとのことです。
江戸時代、庄内藩は致道館(ちどうかん)という藩校を開設して武士の子弟に荻生徂徠の提唱する徂徠学を基にした教育を施していました。そうした精神風土の中から幕末に活躍した清河八郎、昭和初期の日本に影響を与えた大川周明、軍人の石原莞爾などの逸材が生まれています。
また庄内藩では、江戸時代から藩主が領民の生活を配慮する施策が取られていたようで、天保4(1833)年に発生した天保の大飢饉の際には藩蔵を開放して一人の餓死者も出さなかったと伝えられています。この話が示すように庄内藩と領民との関係は非常に良好で、藩内の経済活動が活性化されて初代酒井忠勝が入府した当時、13万8千石程だった庄内藩の石高も江戸後期には実質30万石以上に増加したと推定されています。
これに目を付けたのが財政難で悩んでいた武蔵国川越藩第4代藩主の松平斉典(まつだいら なりつね)です。斉典は幕府に働きかけ天保11(1840)年に自身の松平家を出羽国庄内藩に、庄内藩主の酒井家を越後国長岡藩に、長岡藩の牧野家を川越藩に転封しようとする「三方領知替え」の幕命を発出させました。江戸時代、幕府の命令で藩主が転封することはよくあり、3つの藩がグルっと入れ替わる「三方領知替え」も珍しくなかったようです。
当時、幕府の命令は絶対で、これを拒否すると藩が取り潰されるのが当たり前でしたが、庄内藩の場合は対応が違いました。「三方領知替え」の話が伝わると、庄内藩の武士だけでなく領民も良好な関係にある酒井家の転封に対する反対運動を起こし、領民の代表が江戸まで出向いて幕府に直訴し、藩主を留めるよう陳情したのです。前代未聞の出来事でしたが、諸大名の間でも幕命に対する異論が台頭し、第12代将軍徳川家慶(とくがわ いえよし)の「天意人望」に従うとする判断によって沙汰やみになりました。鶴岡市出身の藤沢周平が執筆した小説「義民が駆ける」は、この「三方領知替え」が題材となっています。
と言うことで、川越藩と庄内藩は互いに縁が無くはない関係であることがお判りいただけたでしょうか。歴史を語る際に「もし」は禁句とされていますが、もし天保4年の「三方領知替え」が実現していたら鶴岡だけでなく、長岡、川越の地域にも何がしかの影響を与えたかも知れません。
街歩きで感じる鶴岡市の空気感
庄内藩は幕末に起きた「戊辰戦争」で徳川親藩として会津藩と共に薩長軍と戦って敗れ、種々の困難に直面しました。しかしここでも庄内藩の人々は、歴史を通じて培われた団結力を発揮して困難を乗り越えました。庄内藩の城下町だった鶴岡市には、歴史に育まれた精神が醸成され、私が出会った方々には伝統に裏付けされた意気地を感じました。
私が鶴岡市に他の地方都市にはない雰囲気を最初に感じたのはその街並みでした。城下町の区画は細分化されて道路は複雑という話は以前から聞かされていますが、多くの城下町は区画整理が施されて道路も直角に交わるミニ京都のような整然とした街並みが多いのが実態です。でも鶴岡市は、古くからの町並みが残され、道路も結構複雑に入り組んでいます。
JR鶴岡駅から鶴岡観光の拠点となっている鶴ケ丘城址公園に向かう路線バスも右折、左折を繰り返し、初めてこのバスに乗車した私は、バスが向かう方角が分からなくなりました。城を攻撃する敵が城下に押し入ってきた際、敵を惑わして時間を稼ごうとする仕掛けに私も掛かってしまったわけですね。
たどり着いた鶴ケ丘城址公園には城の建物はありません。もともと鶴ヶ岡城は、元々天守閣を持たない平城で、平屋建ての本丸御殿を中心に多くの建物が建てられていたようです。城の石積みは低く、城の東側を流れる内川が堀の役目をいたためか本丸を囲む堀も浅く、私がこれまで見てきた城に比べて防御が手薄な印象を与えています。これは庄内藩が戊辰戦争に敗れて城を新政府軍に明け渡し、明治政府による城郭取り壊し令により明治9(1876)年に城内の建築物が破却され、大部分の土塁の取り壊し、堀の埋め立てが行われたことによるものと聞きました。

明治時代に現在一般開放される鶴ケ丘城址公園が造られると、住民が酒井家の歴代藩主を慕う庄内地域の人々の創意に基づき、明治10(1877)年に本丸跡に藩祖を祀る荘内神社が創建されました。同社の祭神は4人の藩主で、ここにも庄内地域の人々と藩主の関係が窺われます。また平成22(2010)年、神社近くに藤沢周平記念館が開館し、全国から熱心な愛読者が訪れています。

地域産業の先行きに期待
私が鶴岡市に滞在したのは僅か1日半でしたが、高層ビルが乱立し、沢山の外国人観光客が押し寄せている太平洋側の大都市とは異なり、手入れが行き届いた鶴ケ岡城址公や静かな鶴岡市内の家並みに漂う城下町に根付いた空気感をタップリ感じて帰りました。デジタル技術が発達したお陰で日常生活に必要な作業がスマートフォンなど携帯端末で済まされ、普通の人間より格段記憶力が良くて便利な生成AIが進化している現代社会、時代に取り残されて身の置き所が無くなった私のような昭和の男にとって鶴岡市は癒しの空間を提供してくれるように思えます。
こう書くと、鶴岡市の方々から街の静かさは地域の衰退を表す現象で、都会から来た観光客の独りよがりとお叱りをいただくかも知れません。確かに鶴岡市の人口は減少を続け、今年3月末現在、11万5千人と10年前に比べて12.6%も減少しています。私がお邪魔した際は市会議員選挙と市長選挙の運動期間に当たり、候補者を乗せた選挙カーが街中を行き交っていました。帰宅後、インターネットで鶴岡市の選挙公報を眺めてみると、候補者毎に表現は違いますが、それぞれが地域の産業振興を通じて人口の減少を食い止めようと主張していました。
東上沿線でも首都圏を離れた地域では人口が減少傾向を辿っており、他人事ではありません。ただ人口問題は一朝一夕で解決出来るような生やさしいものでなく、腰を据えた対応が肝要です。そう考えると、現在進行している生成AIなど技術革新の成果を活用も視野に入れた対応が進むでしょう。既に米国では、生成AIの導入により大卒者への求人が減少し、配管工や大工を要請する職業訓練校の入学者が増加して人々の仕事が変化する動きを示しています。
私は日本の地域産業にとって新しい発展が期待できる環境が生まれていると考えています。技術革新の成果だけでなく対ドル円相場が極端な円高が是正され、かつ政府が積極的な財政支出に踏み切る姿勢を見せるなど地域の生産活動にとってフォローの風が吹き始めているからです。センスの良い経営者ならば、この事態をチャンスと捉えた対応を図るでしょう。鶴岡市でも土地柄を生かした新産業が誕生するのではないでしょうか。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。
