広告

仙波東照宮 川越藩主柳沢吉保の石灯籠奉納は、赤穂浪士の討ち入りを誘うために仕組まれた

川越の喜多院の本堂前を進むと、こんもりとした森の中石段の上に社が見える。今は訪れる人はあまり多くないが、ここは徳川家康を祀る東照宮の一つ、仙波東照宮である。家康の遺骸を4日間留め置き、喜多院の天海大僧正が大法要を営んだ。仙波東照宮には、まだよくわからないことが多くある。川越市シルバー人材センター観光ガイドを務める石山貞夫さんは、このほど『観光ガイドが探る歴史都市川越の謎の部分』を著わし、その中で川越の歴史の謎の解明に取り組んでいる。仙波東照宮に関しても、川越藩主柳沢吉保の石灯籠奉納は、赤穂浪士の討ち入りを誘うために仕組まれたとするなど、非常に興味深い指摘がなされている。仙波東照宮について、石山さんにご説明いただいた。

仙波東照宮とは 天海僧正が日光へ移葬される徳川家康の法要を営んだ

 仙波東照宮は徳川家康がご祭神として祀られています。久能山(静岡県)、日光と並んで、三大東照宮に数えられています。

 徳川家康は元和二年(1616)4月17日他界し久能山に葬られましたが、遺言に従い翌年改めて日光山に葬られました。葬列が日光に向う途中、三年3月23日川越・喜多院へ到着。住職の天海大僧正は大堂に4日間霊柩を安置し大法要を営み、まもなくして神像を刻み、私祭しました。この時点では簡素な奏斎所であったと考えられますが、その後、寛永十年(1633)、東照宮社殿造営工事に着手、天海自ら浄財をなげうち築山を築き、本殿と拝殿を建てました。同年12月、後水尾天皇自筆の「東照大権現」の勅額が下賜されました。

川越大火で焼け、再建

 しかし、寛永十五年(1638年)1月28日の川越大火で、喜多院は山門のみ残し全焼、 東照宮、中院、南院も焼失してしまいました。家康、天海に一方ならぬ恩義を感じていた将軍家光は自ら願主となり、藩主堀田正盛を造営奉行に任じ喜多院・東照宮再建に乗り出します。天海はこの時100歳を超えており、導師役を務めました。翌十六年1月には、忍藩主松平伊豆守信綱が川越へ入封、城下の再建整備、新河岸川舟運の開削にあたります。

 再建部材輸送のため新河岸川寺尾河岸を仮設、江戸から舟で運ばせました。江戸城紅葉山から喜多院再興のための客殿、書院が解体され運ばれました。これが新河岸川舟運の始まりです。東照宮の社殿は寛永十七(1640)6月17日に完成しました。

仙波東照宮は私祭の時期が早く、幕府も厚遇

 東照宮(社)は全国508社を数えますが、仙波東照宮は私祭の時期が早かったこと、幕府の厚遇は他と異なります。背景には、喜多院を関東天台宗の中枢たらしめ家康の信頼が厚かった天海大僧正の政治力がありました。川越藩の歴代藩主も折にふれ支援してきました。しかし明治維新で藩の保護がなくなり、別当寺であった喜多院の管理を離れ無格社になっています。現在は天海ゆかりの六家が管理運営を行っています。

本殿・瑞垣・唐門、拝殿・幣殿、随身門、石鳥居などすべて国の重要文化財

 本殿・瑞垣・唐門、拝殿・幣殿、随身門、石鳥居などすべて国の重要文化財になっています。

本殿 本殿は境内最奥にあり、極彩色を施した「三間社流れ造り」という形式です。中には円形厨子の中に甲冑を着けた馬上姿の東照大権現像(御神体)が納められています。本殿の周囲に廻らせた塀を瑞垣といい、唐破風造りの屋根を持つ門を唐門といいます。

仙波東照宮本殿
仙波東照宮本殿

拝殿・幣殿 本殿の前、50段の石段を登ったところに拝殿とそれに続く幣殿が建っています。内部は朱塗りで、拝殿の長押には絵師岩佐又兵衛勝似の描いた「三十六歌仙額」が掲げられています。幣殿内部正面に後水尾天皇自筆「東照大権現」の勅額が掲げられ、左右の長押には狩野探幽作と伝えられる「鷹絵額十二面」を配しています。

仙波東照宮の拝殿
仙波東照宮拝殿

随身門 随身門は東照宮表門にあたります。門に安置してあった随身像は現在は拝殿に、後水尾天皇の勅額は幣殿に飾ってあります。

仙波東照宮随身門
仙波東照宮随身門

石鳥居 石鳥居は高さ3.5㍍。造営奉行を命じられた藩主堀田正盛が寛永15年、本殿造営に先立って奉納しました。

仙波東照宮石鳥居
仙波東照宮石鳥居

石灯籠 石灯籠は、歴代川越城主が東照宮を修理した時に奉納したもので、全部で26基あります。2基一組で本殿前は松平伊豆守家3代の6基です。

仙波東照宮石灯籠
仙波東照宮石灯籠

狛犬と手水鉢、幣殿の鷹絵額は、江戸城二の丸から移されたものです。

(以上は石山貞夫さんのご説明と、さきたま文庫『仙波東照宮』を参考にして作成しました)

<石山貞夫さんに聞く>

大師堂は今寛永寺根本中堂

―天海僧正が家康の法要を行ったのは、喜多院のどこだったのでしょうか。

石山 当時天海が常駐していた喜多院の大堂(薬師堂)です。家康は薬師如来の化身とされ、そこで4日間大法要を行ったのです。

―その跡は残っているのですか。

石山 現在の喜多院の山門の近く、民家が建っています。建物は、明治維新後、上野の寛永寺に移築されました(根本中堂)。

喜多院山門
喜多院山門
喜多院山門脇に立つ天海像
喜多院山門脇に立つ天海像
寛永寺根本中堂
東京・上野の寛永寺根本中堂

―寛永十年に建てられた東照宮は現在地にあったのですか。

石山 その点に関し2説あり、現在地であるという説と、今天海を祀る慈眼堂が建っている場所という説です。私は現在地の可能性が大きいと思います。慈眼堂の場所は元々古墳がありました。現在の東照宮の場所は元々中院の境内で、中院を移転させ、人足が山を掘り上げた。火事で焼けた後も、同じ場所に建てたと考えられます。

前藩主堀田正盛が東照宮再建の造営奉行

―大火後の再建の責任者堀田正盛は国替えになっているのですね。

石山 3代藩主堀田正盛は川越大火の責任を取らされる形で老中を降り、信州松本に転封になります。同時に東照宮再建の造営奉行に任じられ、その責任を果たしています。松本への転封も加増されており、幕府の狙いは始末というより、後任の松平伊豆守の手腕に期待したということなのではないかと考えられます。

江戸城にあった二の丸東照宮を移築したのか

-仙波東照宮は江戸城にあった二の丸東照宮を移築したといわれているのですか。

石山 これもいろいろな説があります。本殿は間違いなく新築です。川越のこれまでの説では幣殿・拝殿も新築だとする説が有力でしたが、今は二の丸東照宮を川越に移築した時の建物の一部が使われているという可能性が強まっています。二の丸東照宮は江戸城天守台下にあったが空宮となっていて、信綱がそれをいただいてきた。本殿だけ川越城内の三芳野神社の本堂に使い、拝殿・幣殿は仙波東照宮に移築したではないかという説です。

―喜多院に家光誕生の間がありますが、それと二の丸東照宮の話は別ですか。

石山 喜多院の家光誕生の間は、家光が天海のために、江戸城紅葉山の自分が住んでいた場所が空いているからと贈った。東照宮とは別の話です。

 石灯籠奉納 柳沢吉保が仕掛けた誘い

―今回の著書で、東照宮に奉納された柳沢吉保の石灯籠が赤穂浪士の討ち入りと関係しているという説を示されています。

柳沢吉保奉納の石灯籠
柳沢吉保奉納の石灯籠

石山 拝殿正面の柳沢吉保が奉納した2基の石灯籠には寛永十五年12月16日の日付が入っています。また喜多院の鐘楼門の鐘は吉保が改鋳して文字を掘り直しており、そこには寛永十五年12月15日と書いています。石灯籠や鐘の奉納は大事業で、幕府から勅使が来ている。吉保はおそらく川越に来ていた。15、16と江戸にいない。赤穂浪士は14日の深夜に吉良邸に討ち入りをしても、江戸の最高責任者が川越に行っているので、幕府からの取り締まりはないだろうと判断したのではないでしょうか。赤穂事件は、綱吉が吉良の味方をして浅野をいじめすぎたことから幕府は討ち入りを半ば奨励していた節があります。だからこの日付は、吉保側が仕掛けた誘いのスキであったのではないか。吉保ほどの人ならそのくらい考えても不思議ではありません。

松平3代石灯籠の宝珠

―東照宮本殿前にある松平家3代の奉納した石灯籠の宝珠が失われていることについても、独自の見方を示されています。

本殿前の松平家3代奉納の石灯籠
本殿前の松平伊豆守3代奉納の石灯籠

石山 本殿の前には、信綱・輝綱・信輝の松平家3代の奉納した石灯籠6本があります。 松平3代は、新河岸川舟運を開いたり、町割り(都市計画)を作ったり、川越を発展させる上で決定的な役割を果たした大功労者です。ところが、これらの石灯籠にはてっぺんの丸い部分宝珠がありません。故意に打ち欠かれているように見え、首を切られたと同じです。これまで、これは島原の乱の恨みではないかと言われてきました。信綱は島原の乱で幕府軍の総大将であり、処刑されたキリシタン信徒の家族、処分された島原藩主など少なくない人々の恨みを買っていました。

 その人達の誰かが、宝珠を落としたのではないかと言われ、私もそう思っていた。しかし、松平3代は元禄七年くらいまで川越にいて、その時代に首がなくなることはあり得ません。なくなればすぐ修復します。島原の乱から50数年たち、それから首を取りに来たとは考えられません。むしろこのいたずらは川越の町の中の出来事から来ているのではないでしょうか。該当するような事件があったのです。お寺の移転です。昔は城の周りに多くのお寺があったのですが、松平の時に、武家屋敷を作るために6カ寺を移築した。お寺の取り壊しは墓を暴くことになるので、かなり抵抗がありました。無理して行ったため、それにからむ恨みが松平に行ったのではないかという仮説です。

徳川家が自らの事業の発展を見守る神殿

―石山さんは、この本で仙波東照宮は、徳川家が自らの事業の発展を見守る神殿であると書かれています。

石山 仙波東照宮は幕府の直営社です。全国に500くらい東照宮がありますが、ほとんどは幕府が民衆に向けて創建者である家康に対する親しみ、信頼を高めるため祀られています。これに対し、仙波東照宮と三芳野神社は徳川家自身が自分達の願いをかなえるために作った神社です。民衆の参拝は期待せずむしろ禁止していました。他の東照宮は、彫刻 も親しみを感じるために猫とか猿とかを飾ってありますが、仙波東照宮は鷹、鳳凰、獏など家康の高貴さを示す霊獣の彫刻です。

広告

「寅」と「卯」

―社殿の建つ方位にも意味があると。

石山 仙波東照宮の参道と社殿のラインは、真東・真西ではありません。真っ直ぐ行くと比叡山。拝殿からご神体を参拝すると、遠く離れた比叡山延暦寺を拝むことになります。これをご神体側から見ますと、方位75度に向っています。75度は方位60度の「寅」(家康の干支)、90度(秀忠の干支)の中間です。寅と卯の年は、徳川家にとって、家康の江戸入府、幕府開設、大阪夏の陣など大事の年です。天海は方位による吉凶を大事にしており、自ら導師を務めた仙波東照宮も計画的に設計されていると考えられます。

川越街道は仙波東照宮の参拝のための道

―川越街道は仙波東照宮の参拝のための道だったのですか。

石山 江戸と川越を結ぶ川越街道は、3代将軍家光の仙波東照宮参拝の道として寛永十年(1633)に完成しました。中世からの曲がりくねった狭い道が、松平信綱の大工事によって機能的な道に改善されました。家光は川越に9回も来ています。歴代川越城主は老中など要職を務め、物資の運搬や書状の往復も盛んでした。日本橋からわずか10里の道程に6つの馬継ぎ宿(上板橋・下練馬・白子・膝折・大和田・大井)が設けられました。お上の定めた官道ですから、民衆の勤労奉仕が強制されました。宿場ごとに伝馬問屋が置かれ、伝馬役人と馬と人足を常備することが義務づけられました。

川越の町は、江戸に住む百万の人々の生活を支える交易・流通都市として、川越街道や新河岸川舟運を通じて大いに働いて来ました。この働きを通じて江戸幕府と川越藩に対して、川越の町は、町ぐるみで大変な貢献をしてきたことは、市民の誇りとすべき歴史です。

石山貞夫さん
石山貞夫さん
石山貞夫著『観光ガイドが探る歴史都市川越の謎の部分』
石山貞夫著『観光ガイドが探る歴史都市川越の謎の部分』

 

石山貞夫著『観光ガイドが探る歴史都市川越の謎』は、仙波東照宮前のCAFE ANDON、川越一番街の本の店太陽堂でお求めになれます。

「徳川家康と天海大僧正」展記事