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狭山茶の起源 「慈光茶」「河越茶」

狭山茶はいつから飲まれるようになったのだろうか。意外なことに、関東におけるお茶の起源は、今の狭山や入間ではなく、川越の無量寿寺、ときがわの慈光寺という、寺院に始まるという。入間市博物館の小田部家秀学芸員にお聞きした。(本記事は2009年9月から11月入間市博物館特別展「狭山茶の歴史と現在」の展示を参考にし、同展資料を一部拝借し「東上沿線物語」第32号に掲載されたものです)

―狭山茶はいつごろから生産が始まったのですか。

小田部 旧武蔵国、今の埼玉県と東京都で作られているお茶を総称して狭山茶と言っています。いつから作られ始めたのか記録が残っていないので実際のところ不明なんですが、中世の書物に「河越茶」と「慈光茶」という名が出ており、これが狭山茶の起源につながるお茶と考えられます。

川越・中院に「狭山茶発祥の地」碑

―ということは狭山茶は川越から始まったということですか。

小田部 そもそも、平安時代の『日本後記』に「嵯峨天皇に大僧都永忠がお茶を献じた」とあるのがお茶についての一番古い記録です。当時のお茶はおせんべいみたいな固形のお茶、餅茶(団茶)だったんです。遣唐使が、唐で飲まれていたお茶を日本に伝えたと考えられており、天台宗を開いた最澄や真言宗を開いた空海にも茶にまつわる手紙や詩が残されています。

川越に無量寿寺(今の喜多院・中院の前身)を開いたのが最澄の高弟の円仁で、比叡山延暦寺のふもとに茶園があったと伝えられていますので、そこからお茶が伝わった可能性もあるわけです。今の中院は、無量寿寺の子院として建立された寺で、「狭山茶発祥の地」の石碑もあります。

中院(川越)の「狭山茶発祥の碑」

中院(川越)の「狭山茶発祥の碑」

 ただ、この時代のお茶は一部の有力寺院の中で飲まれるようなもので、「河越茶」の名もまだありません。

―「慈光茶」とは。

小田部 お茶が広まっていくのは、鎌倉時代になって、宋から新しいお茶の飲み方が伝えられてからです。蒸した葉っぱを乾燥させて石臼で粉にし、茶わんに入れて湯を注ぎ、撹拌して飲む、現在の抹茶です。臨済宗を開いた栄西は、日本で初めての茶書『喫茶養生記』を著して、茶の薬効や抹茶の製茶法、喫茶法を広めました。

ときがわ・慈光寺には今もお茶の木が

 栄西には3人の有名な弟子がいるんですが、その1人栄朝が住職をつとめたのが慈光寺(ときがわ町)です。この寺は鎌倉の将軍家や京都の九条家と密接なつながりがあって、栄朝が入山したころは勢力を極めていた時代でした。今も多くの国宝や重要文化財が残されています。栄朝は、慈光寺の塔頭に霊山院という寺を開き、関東では一番古い禅寺と言われています。

 栄朝は栄西の弟子ですから、栄西が広めた抹茶が慈光寺にも伝えられ、境内でお茶づくりがされて、僧侶が飲んでいたと推測されます。今でも慈光寺の山に入りますと、お茶の木がたくさん生えています。お茶とかかわりの深い寺だなと、実感させられます。

慈光寺山門

慈光寺山門

山門前の茶の木

山門前の茶の木

―慈光寺を起点にしてお茶が広がったということですか。

小田部 抹茶は、鎌倉時代以降、有力寺院から、上流武士の間に広がります。武蔵武士でも有力だった河越氏は鎌倉幕府ともつながりがあり、川越の上戸というところに館跡があります。その発掘調査で青磁や白磁の輸入陶磁器、天目茶碗、茶入れなどお茶に関係する出土物が出ていて、当時の河越氏が抹茶をたしなんでいたことが確実視されます。

―河越氏が飲んだから『河越茶』ですか。

小田部 「河越茶」の名が出てくるのは南北朝時代に成立したとされる『異制庭訓往来』という書物で、日本の銘茶の産地が列挙されています。第一は京都の栂尾(右京区高山寺)で、それを補佐する京都・奈良の6箇所の茶産地に次ぐ「此ノ外」の地方産地5箇所の一つとして「武蔵河越」があげられています。当時のお茶処は皆大きなお寺があるところです。

河越氏館跡

河越氏館跡

戦国時代の『旅宿問答』にも、日本の銘茶の産地が記してあり、今度は河越ではなく、「武蔵の慈光茶」と出てきます。河越、慈光寺が武蔵を代表する産地だったようです。ただ、この時代、抹茶を飲んでいるのは上流階級ですし、室町から戦国時代になると東国も戦乱に巻き込まれ、無量寿寺も慈光寺も焼き討ちにあうなどダメージを受け、河越茶、慈光茶は戦国以降一切名が出てこなくなります。

入間市の吉川温恭ら3人が煎茶の製造に初めて成功

―そうすると、江戸時代はどうなったのでしょうか。

小田部 江戸時代になると明代末の中国から、また新しい茶の飲み方が伝わります。釜で炒ったお茶っ葉を急須に入れて飲む釜炒り茶です。京都宇治の永谷宗円という人が、この釜炒り茶の製法と抹茶の製法をミックスして独自のお茶を開発したんです。それが、蒸した葉っぱを抹茶にするのではなく揉んで乾かし、急須に入れて飲む、蒸し製煎茶です。今私たちが普段飲んでいる煎茶はここに始まるんです。270年ほど前で、日本人の味覚に合ったのか、全国に広まります。

―やっと武蔵で煎茶の生産が始まるわけですね。

小田部 当時の埼玉県は、お茶っ葉を日で干したり、簡単な釜炒りにして土瓶などで煮だして飲むいわゆる番茶のようなものを作っていたのではないかと考えています。蒸し製煎茶が広まり、江戸の庶民も飲むようになると、近在の農家の人たちが江戸で売れるお茶作りを目指すようになります。現在の入間市宮寺の吉川温恭(よしずみ)や、その近隣の村々の村野盛政、指田半右衛門の3人は、宇治で蒸し製煎茶の製法を学び、地元に帰ってからも試行錯誤を重ね、江戸の茶商・山本山のアドバイスも得て、ついに関東で初めて製造に成功し、文政2年(1819年)江戸の茶商との取引が始まります。この時の最初の売買契約書が残っています。

 吉川の故郷にある出雲祝神社の石碑には、(吉川、村野らが)「重ねて場を狭山の麓に開き、以って数百年の廃を興さんと欲す」とあります。慈光茶、河越茶以来すたれていた武蔵の茶を復興しようとしたという意味です。ただ、当時はまだ「狭山茶」というブランド名はありませんでした。

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輸出品であった狭山茶

―この後、狭山茶は産業として発展するのですか。

小田部 江戸の庶民に売れるようになったのが産地化のスタートですが、産業として拡大するのは、安政年間になり輸出が始まってからです。当時生糸と並んでお茶が主力の輸出品になり、お茶が増産されました。この辺のお茶は八王子商人が集積し、外国人貿易商を介在して横浜港から輸出されていました。これでは地元の製茶業者に利益が増えませんので、地元の製茶業者30軒ほどが集まって、直接輸出する会社を立ち上げた。それが「狭山会社」で、この時、「狭山茶」という地域統一のブランド名が確立したようです。ただ、インド、セイロンの紅茶が人気を博してから、海外輸出は次第に後退していきました。

「狭山会社」の茶袋ラベル

「狭山会社」の茶袋ラベル

―当事西洋人が煎茶を飲んでいたのですか。

小田部 緑茶にミルク、砂糖を入れて飲んでいたらしいです。

高林謙三の発明した製茶機械

―その後狭山茶は現在のような国内の家庭向けの生産に。

小田部 そうですね。当初は手もみ製茶でしたので生産コストが高く、非常な重労働であるという問題があり、日高市出身の高林謙三というお医者さんが、製茶機械の発明に人生の後半をかけた。ただ、高林の機械も地元ではなかなか受け入れられなくて、当時の茶商組合は、大正4年に機械製茶を禁止するチラシを作ったりしています。機械製茶は鉄・油くさく、手もみ製茶を誇りとする狭山茶の評判を落とすとして、受け入れられなかったんですね。そのため高林は製茶機械を必要としていた静岡に移り、静岡で先に機械化が進むことになります。

高林謙三

高林謙三

―狭山茶の現在の規模は。

小田部 今、埼玉県と東京都一帯で作られているお茶を狭山茶と呼んでいますが、栽培面積は埼玉で1,110㌶、入間市(495㌶)、所沢市(209㌶)、狭山市(130㌶)が多い。水はけがよい関東ローム層の台地が適地なんです。産出額は生葉で16億円(平成18年)といったところです。

狭山茶の歴史 その2

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