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沿線歴史点描⑥ われらが池袋 山下龍男

東上沿線住人にとって「池袋」は特別な町である。埼玉県奥地に生まれ、人生の大部分を東上沿線住人として過ごしてきた筆者にとっては池袋とはすなわち東京であった。デパートがそびえ、となりの山手線・赤羽線をひっきりなしに発着する電車に大都会を実感したものである。なにしろ池袋の駅では改札がいつでも開いているのだ。1時間のうち10数分、電車が来るときだけ改札が開くというのが当たり前だった田舎の駅とはえらい違いだ。幼い私にとって、1日中開きっぱなしの改札口というのは、冬でも半ズボンで過ごす小学生の姿とともに、大都会東京の象徴だったのだ。

地味だった池袋

 池袋は、新宿・渋谷とともに山手線西部地区の3大ターミナルの一つとして発展を続けてきたが、繁華街としての歴史は新宿・渋谷に比べるとずっと短い。

 江戸時代、新宿は5街道の一つ甲州街道の最初の宿駅として繁栄していた。渋谷もまた大山街道沿いの宿駅として街並みを形成していた。その一方で江戸時代の池袋は、主要な街道から外れたまったくの農村地帯であり、中山道の通る巣鴨や、練馬方面の農産物の通り道だった目白のほうが、まだ多少の街並みを形成していた。だから明治18(1885)年に赤羽と品川を結ぶ日本鉄道が開通したとき、新宿・渋谷そして目白に停車場が設けられたが、池袋は村の東を線路が通過するだけで相変わらずの純農村だった。

 現在の池袋駅のあたりには鬼子母神で有名な雑司ヶ谷村から池袋村を経て金井窪村へ向かう道が線路を斜めに突っ切っていた。今の東口パルコの北隣、線路に沿って四面塔というお堂が建っているが、それが当時の道を偲ぶ唯一の名残といえよう。この四面塔は、享保6(1721)年夏の夜にこの地で起きた、追剥による通行人17人の殺害事件の被害者を追悼するために池袋村の住民が建立したものだ。いかにこのあたりがさびしい場所だったかをものがたっている。

発展への糸口

明治22(1889)年に市町村制が施行されたとき、池袋村は巣鴨村(後の西巣鴨町)に併合され、その大字に過ぎない地名となってしまった。このように東京郊外の地味な農村だった池袋に転機が訪れたのは明治36(1903)年、日本鉄道から分岐して田端に向かう路線(現在の山手線に相当)が開通したときである。この分岐点は当初目白駅を予定していたが、地元の反対や地形の関係などから池袋に変更され、それと同時に池袋駅が開業したのである。以後、明治40年には立教大学の進出が決定(開校は大正7年)、その2年後には府立豊島師範(後の学芸大学)が開設されるなど、急速な発展を開始。大正3(1914)年には駅の売り上げが目白駅を追い抜いている。

東上線(当時は東上鉄道)が開通し、池袋を起点としたのはその大正3年の5月のことだ。当初、計画段階での東上鉄道の始発駅は池袋ではなく大塚辻町、すなわち現在の東京メトロ丸ノ内線の新大塚付近だった。大正元(1912)年に下付された敷設免許にも下板橋・池袋間は大塚辻町へ向かう本線の分岐線として計画されていたことがわかる。その後、起点を大塚辻町から池袋に変更したのは、学校の進出などによる池袋地区の急発展を目にしたからに他ならない。

 東上鉄道の開通の翌年には武蔵野鉄道(現西武鉄道池袋線)が池袋を起点として開通する。こうして大正初期には、東京のターミナル駅としての池袋駅の原型が完成した。当時、渋谷駅は玉川電鉄(現東急玉川線)が開通していたものの、井の頭線や東横線は未開通であり、新宿駅も甲武鉄道(現中央線)が明治末期に、京王電気軌道(現京王線)が大正4年に開業しているが、小田急線は未開業だったから、池袋駅のターミナル化は一気に新宿・渋谷両駅に並ぶか、それをしのぐ勢いとなったのである。

その後、この3駅は終始競うようにして東京の副都心として発展するが、新宿・渋谷がまがりなりにも江戸時代以来の街道筋の街並みを形成していたのに比べて、商業的集積のまったくなかった池袋の変貌がもっとも激しかったといえよう。

 現在、池袋駅の各社別乗降人員は
◎JR池袋駅=57万人、日本のJR全駅で新宿に次いで2位
◎東武池袋駅=51万人、東武鉄道全駅中で第1位◎西武池袋駅=51万人、西武鉄道全駅中で第1位
◎東京メトロ池袋駅=47万人、東京メトロ全駅中で第1位

であり、1日200万人が乗り降りする日本第2の巨大ターミナルとなったのである。

(本記事は「東上沿線物語」第12号(2008年4月)に掲載した記事を2020年2月に再掲載しました。数字は当時のままです)

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