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戦国時代 扇谷上杉氏の拠点、江戸時代は川越藩の政治の中枢  川越城の歴史

川越城は戦国時代扇谷上杉氏によって築かれ、江戸時代を通じて川越藩の政治の中枢であった。500年以上にわたり、時代の変遷を歩んできた。現在は、国内で2例のみの本丸御殿の建物が残り、公開されている。

(以下の記事は、川越市教育委員会文化財保護課の天ケ嶋岳さんのご説明、市の川越城の歴史に関する資料を元に作成しました)

本丸御殿

扇谷上杉家上杉持朝の家臣だった太田道真・道灌親子が築城

川越城は1457年に造られたが、太田道真・道灌親子が築城に深く関わった。道真・道灌は扇谷(おおぎがやつ)上杉持朝の家臣であった。

川越市役所前に立つ太田道灌像

持朝は当時相模の守護であり、今の伊勢原市に拠点があった。当時川越のある武蔵国は上野国とともに山内上杉房顕が守護をつとめていたが、実質的には持朝が支配していた。持朝は支配している領地の境のところに城を築き、その一環で川越城が築かれたと考えらえる。同じ時期に造られた江戸城も同様に東側の境であった。

前代に河越三十三郷と呼ばれている土地が記録上はあり、当時の川越はまったく何もない平原ではなく、集落がそれなりにあった中に城が造られたと考えられる。平安末期から鎌倉時代に建てられた河越氏の館(市内上戸)と川越城は関係がない。

川越合戦

川越城は、扇谷上杉氏の城だったのが、北条氏に攻略される。扇谷上杉朝定の川越城を北条氏綱が奪い、朝定は松山城に退却した。奪還を目論む朝定は宿敵であった山内上杉憲政、古河公方足利晴氏に援軍を頼み、北条綱成が守る川越城を攻めた。長い籠城の末、北条氏康が駆けつけ、上杉連合軍は敗退した。この戦いを川越合戦と言う。一般には「夜戦」と言われているが、夜ではなかった可能性もあり、近年は「川越合戦」と呼ばれる。

当時の城の範囲はよくわかっていないが、城の西側、今の市役所のあたりに江戸道、松山の方に抜ける松山道が通っていたとみられる。北からは松山道を通ってくるので、城下に入った東明寺の門前あたり、城から見て北西の「東明寺口」が戦場であったと推測される。東明寺境内が戦場になったかどうかはわからないという。

北条氏は小田原を本城とし、川越・玉縄・松山などを属城として重臣を派遣して守らせた。川越は氏綱が攻略すると北条綱成が城主となり、城将として大道寺政繁が派遣された。

大道寺政繁は軍略に長けていたので、北条氏は各地の戦闘に出陣させた。秀吉の小田原攻めの際は、上杉景勝・前田利家らの軍勢を迎え撃つため松井田城に出撃し、そこで負けて捕虜になった。やがて、前田軍が川越城にやってくると、町衆が籠城したといわれている。戦争にはならず、無血開城した。

酒井重忠が川越に入封し、城を作り直し、信綱が拡大

1590年、徳川家康が秀吉から旧北条領を与えられて関東に入ると、武蔵は川越、岩付、忍、深谷の4城を残して整理される。川越には酒井重忠が入封したが、川越城はこの時、大きく造り替えられたと考えられる。このことは、発掘調査で北条時代の堀が埋められて、江戸時代の堀が掘られていることからも想像できる。

川越藩歴代藩主

酒井時代の城は、今見る城の絵図の中心の部分だけだったが、松平信綱の時代に大きく広げる。1638年、堀田正則が城主の時、川越は城と城下の大半を焼失する大火に見舞われる。天草の乱を平定した信綱が川越にやってきて、城を復興し、城域を広げた。信綱は「火事の先生」とされ、この後、江戸の振袖火事の復興にも携わる。

信綱の時代に外郭は1.5倍くらいにはなったとみられる。川越城の最大規模は松平大和守の時代で最大32万6000㎡ほどあった。

川越城平面図(慶応3年の「川越城図」が元、川越市立博物館資料)

1848年に本丸が再建される

川越城には天守閣はなく、城の中心は本丸だが、二ノ丸御殿に城主の住まい、居所があり、実質的には二ノ丸が城の中心だった。二の丸は、今の市立博物館あたりにあった。江戸時代の初期、本丸は将軍が来た時の御成御殿だったが、家光の時代を過ぎ将軍が川越に来なくなったこともあり、空き地になっていたようだ。1848年、大和守斉典(なりつね)の時代、二ノ丸が火事になり本丸が再建される。

松平大和守家は、明和4年(1768)から慶応2年(1866)までの約100年間、7代にわたって川越城主を務めた。なかでも斉典が城主のときには、川越藩では17万石という最大の石高を誇った。

維新で土地と建物を民間に払い下げ

幕末、慶応3年(1867)に大和守は周防守家と入れ替わる。明治維新後、多くの城は明治6年(1873)の廃城令で、後の陸軍省の管理に置かれたが、川越城は廃城令にかかっていない。明治3年の段階で、明治政府に開墾してよいかという書類が出ており、城としてはすぐに解体を始め、開発されていたのではないかと考えられる。

たとえば、福岡村(現ふじみ野市)の回船問屋星野仙蔵宅には、本丸御殿の家老詰所という建物が払い下げられ昭和60年まで建っていた(その後本丸御殿に戻る)。

現在の本丸御殿(奥が家老詰所)

城の本丸御殿が残っているのは川越だけ

本丸御殿は廃藩置県で川越県ができると川越県庁として使われた。入間郡になると入間郡公会所、その後専売局たばこ工場 初雁武徳殿という武道場、戦後初雁中学校の仮校舎に、また武道場に戻されて、昭和42年、埼玉国体の年に県指定有形文化財に指定され公開施設になっている。

江戸時代の城の本丸御殿が残っているのは川越だけ。本丸の大広間があるのは他に高知城、独立した建物として残るのは掛川城の二の丸御殿くらい。貴重な史跡だ。

中ノ門濠、富士見櫓

川越城の遺構としては他に濠の跡がある。中ノ門濠は、元々残っていた濠を市がきれいに当時の形に整備した。濠跡は他には富士見櫓の周りに少し残る。富士見櫓は本丸の南西の隅にあり、物見台、櫓の跡。武器庫だった可能性もある。

中ノ門濠

富士見櫓跡

城内には、童謡「通りゃんせ」の発祥の地とする説もある三芳野神社がある。道灌が建てる時にはあったという伝説もあり、城内に取り込んで崇敬したという。

1899年に川越高校(旧川越中学)が城内に新設された。川越市役所は、西大手門のあったところ。元々は今の庁舎の向いの駐車場の土地にあった。市立博物館は二の丸跡地。

戦国時代の平山城

川越城は、建てられた時は扇谷上杉の重要な拠点だった。戦国時代までは戦略上重要なお城。江戸時代の平和の中では、江戸に近い密接な関係にある川越という重要な都市を治めるための城という性格に変わる。役割が変化した。

形態としては戦国時代の平城、あるいは平山城とされる。立地としては台地の端で、初雁球場から川の方に高低差があり、山城的な造り方をしているという。

川越市は今初雁公園の整備事業を進めており、歴史的建物として建っている本丸御殿をいかに風格あるものとして公園の中に位置づけていくかが中心課題だ。

(取材2020年12月)

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