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鶴ヶ島の鶴ヶ丘開拓に参加した今泉清詞さん 今泉記念ビルマ奨学会を設立

鶴ヶ島の今泉清詞さんは、第二次世界大戦でビルマ(現ミャンマー)におけるインパール作戦に参加、壊滅的な犠牲が出る中九死に一生を得て帰還した。戦後、鶴ヶ島の鶴ヶ丘地区に入植、荒れた土地を切り開いた。戦時中ビルマ人に迷惑をかけながら助けられた恩返しとして1989年今泉記念ビルマ奨学会を設立、多くのビルマ人学生の奨学金を提供してきた。その縁で鶴ヶ島市とミャンマーの交流が進み、東京オリンピックで同市がミャンマー選手団の受入都市になっている。大正14年生まれで96歳になった今泉さんに開拓の経験と、ビルマ奨学会設立のいきさつをお聞きした。

鶴ヶ島開拓の歴史

黄色い土が舞い上がり開墾が困難とされていた荒れ地

-鶴ヶ島の開拓に参加されたのは地元出身だったからですか。

今泉 出身は新潟なんです。当時は復員者とか満州からの引き揚げ者とか失業者が大勢いたので、新潟県の人間が入ることは不可能でした。埼玉県の人のめんどうをみるだけでも精一杯で。私は親戚が大和町(現和光市)にいたので和光に移り住んで埼玉県人になって、入植させていただいたんです。

-開墾した場所は現在お住まいのところ。

今泉 そうです。私は入植直前に盲腸炎になり遅れて、最後に残った土地でした。ここは、関東の空っ風で有名ですが、当時は障害物がないので黄色い土が舞い上がり200m先に林がありますが見えなくなる。だからここは、土地の事情がわかっている人はこんなところに入っても成り立つわけはないと。私が入ってきて小屋を作っていましたら、親しくなった人が何人かいまして、私が軍隊の身の上話をすると、「それはたいへんご苦労なさって知らないからここへ入るが、ここは江戸時代から小さい農家が畑を増やそうと何回挑戦してもダメで荒れ地になっているところだから、今肥料の配給もなく農業の経験もない人が成り立つわけがない。今のうちに他のことを考えた方がよい」と言われました。

-最初は生活が大変でしたね。

今泉 金は一銭もないし、知識もないし、何もない。それでも何とかなるだろうとがんばっていた。一冬中かかっても金はないし食べるものはないから、農家に手伝いに行ってなにがしかもらってきて、米や麦を買ってきて、家内が「明日の米がないよ」と言うとまた農家に手伝いに行って米を買って、開墾して。また米がないよと。そんなことを繰り返して開墾をしたわけですよ。

板橋から牛糞のこやしを運ぶ

-どのくらいで作物がとれるようになったのですか。

今泉 そのままでは何もとれない。初めの年はサツマイモも伸びない、陸稲も天気が続くと表土がないからダメで、これは言われた通りだめだな。しかし今さらどこかにゆくわけにはいかないから肥料をやるよりしようがないと、それで川越のゴミ捨て場へ行ってゴミをもらってきて撒いたらいくらか採れましたがとてもそれだけでは間に合わない。家畜の糞でなければと、当時板橋の方に牧場があった。ところが鶴ヶ島にはトラックを持っている人がいなかった。作物がとれたら払うからと川越からトラックを借りて板橋から牛糞を持ってきてやったらいくらかとれたが、売った金はみんな肥料屋に持っていかれた。

-作物は何を。

今泉 陸稲とサツマイモ。それ以外はダメだった。2、3年目くらいから落花生も作った。

駅前だが電車は1時間に1本

-駅のすぐ近くでそのような開墾が行われていたとは、今になっては想像できないです。

今泉 電車が1時間に一本通るくらい、2両。電車が停まると、仕事の手を休めて見る。今日は1人降りた、今日は誰も降りない。市街化するのはずいぶん先の話です。

 

今泉さんは、昭和16年(1941)から4年8ヶ月軍務に服する。43年6月からビルマに入り、インパール作戦に従事した。作戦は失敗に終わり、駐留した日本軍人32万人のうち19万人が亡くなり、今泉さんの所属した中隊も隊長以下全員が亡くなった。

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命を救ってくれたビルマの人々

「日本が負けて敗残兵となって退散するときは、食べるものも着るものも何もない状態です。私たちが一日かかってやっと4、5里歩くところを、敵は車や戦車で1時間くらいで来ますから、いくら退却してもすぐ囲まれてしまう。するとビルマの人たちは私たち敗残兵に「英軍が来るから早くいらっしゃい」と言って寝台の下にかくまってくれたんです。英軍兵が一軒ずつ日本兵を探しにくると、「いないよ」と言って追い払い、英軍兵が去った後に「いなくなったから出ておいで」と言ってご飯を食べさせてくれる。それが1人や2人ではなく、戦友たちが皆同じ体験をしたのです。日本人でもこれだけのことはできないんじゃないでしょうか。日本人をかくまっているのを密告されたら、捕まってしまいます。ですから、命がけでやってくれたわけです」(「ロータリーボイス」2018年4月26日)

日本を恨まず感謝してくれているビルマを大切にしなければならない

-1989年に私費で「今泉記念ビルマ奨学金」を立ち上げるわけですが、これはどのようなきっかけからですか。

今泉 戦後かなりの間日本人は東南アジアに行けませんでした。ビルマで19万の戦友が亡くなっているが遺骨は一体も帰らずみんな現地の人に始末してもらって自分たちだけ生きて帰ったのでは、天国に行って戦友に顔向けできないと思っていたのですが、ようやく行けるようになったので、何としてもと、有志60人でビルマへ行きました。昭和49年(1974)です。当時、中国とかインドシナへ行くと、戦争中は日本から衣食住の補給がなくみな現地の人から徴発したから、どこへ行っても歓迎されない。日本人にはひどい目にあったと。だからビルマもそうだろうと思った。6カ所で慰霊祭を行ったのですが、朝会場に行ってみたら、黒山のように人が集まっている。これはどうしたんだろうと何人かに聞いたら、「我々は子供の頃から幸せの神は東から来ると親から教えられたがそれは日本だった。植民地はひどかった。いい土地はみんなイギリスが使って、人夫は入れるけど普段は入れない。しかもビルマは米がたくさんとれるからそれをマレーとかに輸出すると国境で税金がかかり、輸入にも税金がかかり、両方から税金をとってイギリスに持って行く。それがなくなった。日本が来て、感謝しないでいられるか」と。なるほど、そういう見方があるか。我々は当時あんな馬鹿な戦争をして肩身が狭いという思いをしていたが、現地の人がそういう見方をして、日本のおかげで自分たちの国が自立したことを感謝しているのであれば、やりがいがあったなと思って、そこで初めて目が覚めたようでした。ビルマという国で日本は本国から何も補給がなくて、豊かでもない国の衣食住を調達して迷惑をかけたけれど、そういうことに一切触れないで日本のおかげでよくなったと。これは、ビルマは世界一の親日国であり、大事にしなければいけない。それと19万の戦友が眠っている土地が反日では戦友に申し訳けない。日本のおかげでこうなったと言ってくれている国を大事にしなければいけないという気持ちが根づいたのです。
奨学金は、そのころは私も裸一貫でしたからすぐにはできなかったけれど、こころがけていて、後に実現しました。

健康法は頭の中をからっぽにすること

-最近の世の中で感じることは何ですか。

今泉 世の中のことを見ると、日本といういい国に生まれてありがたかったなと感謝しています。

-ご高齢でもお元気ですが、健康の秘訣は何ですか。

今泉 私は頭の中いつもからっぽなの。悩み事とか心配事とか、そういうものは一切ない。これが一番の健康法でしょうね。いろんなことはみんな流してしまう。

-趣味は。

今泉 特にありませんね。

(取材2021年1月)

鶴ヶ島開拓の歴史記事

 

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