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地元商業振興に尽くす星野光弘県議 「富士見市内の遊休土地はダイヤモンド原石」

星野光弘県会議員(富士見市選出、現市長)は、自ら経営者でもあり、市会議員時代から地元商業の振興に力を尽くしてきた。遅れているとされる富士見市の産業振興策だが、星野議員は逆に開発可能な広大な調整区域が残り、発展の余地が大きい、と言う。

父親も県議

―富士見市出身ですか。

星野 そうです。学校も中学校まで地元です。

―お年は。

星野 昭和32年生まれです。

―お父さんが星野謹吾(元県議)さんですね。

星野 そうです。町議を2期やって、県議は、途中で空いた時期がありましたが、復活して4期務めました。平成15年に亡くなりました。

―中野清(元衆院議員)さんと親戚ですか。

星野 私の叔母が、中野清元代議士の奥さんです。

―星野信吾富士見市長とは姻戚関係があるのですか。

星野 親戚です。市長のお宅は20数代、うちは15、6代たっていますので、江戸時代に市長さんの家から出た分家のようです。うちの父と、市長のお父さんの星野定太郎さんは、ともに大正15年生まれの同級生でした。

―学校を出て最初はどうされたのですか。

星野 2年ほどサラリーマンをしました。父が県議に再挑戦することになり、退職して選挙と仕事を手伝うことにしました。

―お仕事は、不動産業ですね。

星野 不動産の売買・賃貸の仲介、賃貸管理などです。

―名前は「ホシノ株式会社」ですか。

星野 父の時代は、「星野宅建」という名で通っていたのですが、私になり改めました。

市議を3期10年

―市議選に出たのは。

星野 2001年、43歳の時です。

―元々政治家の家系ですが、市議に出た思いは。

星野 当時の私は、不動産業の他、飲食店なども経営しており、青年会議所の活動も一生懸命やりました。政治には興味がありましたが、40歳頃までは日本経済のバブル崩壊で、仕事が大変でした。43歳の時、地域で市議の先輩が勇退されることになり、皆さんから私の名前を挙げていただいたのがきっかけです。

―市議はどのくらい。

星野 3期10年やりました。

―県議にそれから。

星野 平成23年4月告示の県議選に出ました(無投票当選)。今は2期目です。

―県議に移った動機は。

星野 市議10年の経験を生かし、富士見市の活性化、発展のために力を尽くしたいという思いでした。星野信吾市長も誕生していましたので、市長を助けたいということもありました。

―党派は

星野 市議の時は「21未来クラブ」という保守系無所属の集まりに所属。県議は出馬した時は無所属でしたが、当選後は自民党県議団に属しています。

「ららぽーと」出店で三井不動産と交渉

―政治家として活動の重点は何ですか。

星野 自分は市議になる前から、商工会の理事でもあり、商店街の会長にもさせていただき、地元商業の振興に携わっていました。市議になってからも、地元商業の活性化ということで、一つの試みとして商業活性化研究会というのを立ち上げ、もう10年になります(今は2代目会長)。その中でたとえば「一店逸品運動」を展開しました。それぞれの商品やサービスをもう1回見直し、異業種の経営者同士が切磋琢磨して、がんばろうというスタンスです。

それから市内に三井不動産の大型商業施設「ららぽーと富士見」の出店が決まりましたので、地元商業が疲弊することのないよう行動してきました。商工会長から指示を受け三井不動産との協議にあたりました。その結果、三井さんに「地元貢献をする」という確認をさせていただき、おそらく初めて商工会、商店街連合会へ加盟してもらいました。商連のメンバーとなりましたので三井さんも商店街連合会役員会に出席してくれています。

あわせて地元商業者の「ららぽーと」対策として、「にぎわいづくりプロジェクトチーム」を作り、勉強し、スタンプラリー事業とか、各種イベントを実施しています。

市議の最後の年には、我々の会派が議会基本条例を制定の発議をし、私は最初の特別委員長にさせていただきました。私は制定まで見届けられませんでしたが、議論を活発に行い、素案をしあげ、これを持って市民向けの報告会などにあたりました。

県会でノーマライゼーション条例制定へ

―県議になってからの活動は。

星野 第1に、星野富士見市長をバックアップするということです。県の情報、予算を富士見市に持ってくる仕事で、様々な調整ごともあり、その役割を果たしていきたい。

たとえば、「ららぽーと」の出店に伴い、市役所前の県道の改良や、信号機を設置するなど、道路や規制関係について県に要請する仕事もさせていただきました。

―鶴瀬駅前の「つるせよさこい祭り」にも関係されているのですか。

星野 鶴瀬駅西口は区画整理が行われてもなかなか土地利用が進まなかったので、何か活性化のためのイベントが必要だと考えていました。鶴瀬西交流センターができる際、オープン記念イベントを行ったのが始まりです。商店会と地域町会の皆さんとで実行委員会を作って開催、今年10月で第10回が終わりました。今年も私が実行委員長を務めました。最近は、企業やNPO法人、福祉施設の方々も実行委員会に参加してくれるようになり、お客さんも今年は4万人近く来てくださいました。

―県会での活動は。

星野 今文教委員長をさせていただいています。埼玉県の教育をしっかりする体制を作らなければなりません。実は私は息子が2人いたのですが、次男を亡くしていまして、子供たちが元気よくすくすく育ってほしいという思いが強くあります。

それから、自民党県議団にノーマライゼーション条例、手話言語条例制定に向けたプロジェクトチームを作って、副事務局長をしています。できれば2016年2月の定例会で条例化したい。障害者・難病の方と健常者が一緒に地域で生活していけるよう県として取り組む旗印にしていきたい。私の息子も難病でしたので、思いを込めています。

自民党県議団では、一県議でも、条例作りに関わることができ、1期4年あいだで8本ほど関係しました。

―上田県政についてどう考えますか。

星野 上田知事は、前から存じており、人間的にも魅力があり、お話も説得力あります。しかし、(4期目の知事選に出馬したのは)やはり、知事が3期で辞めると言い、自ら提案し多選自粛条例を制定しながら、出馬されたのはよしとしません。

また、政策面では、これまで3期の実績がありますが、ここへ来て、地方創生の流れの中で埼玉県の力強さとかダイナミズムが引き出せていないように感じます。結果的にすべてが東京依存になっているのが現状ではないでしょうか。このままではジリ貧になってしまいます。知事にはもっと埼玉県の力を引き出す仕事に打ち込んでもらいたいと思います。

国道463号線(浦和所沢線)沿いの広大な耕地

―今後の活動について。

星野 生まれ育った富士見がよい町であり続け、活性化していくことに尽力したい。埼玉県の成長は富士見からというくらいの気概を持ってやりたいと思います。

これまでの富士見市は周辺地域に比べて1周遅れの感がありました。しかしそうであったがために、今は先頭ランナーです。昭和50、60年代から平成のバブルがはじけるまでの間、食品スーパー以外大型店は市内にありませんでした。大きな工場もない。今も6対4で市街化調整区域の方が多い。ところが今となると、それが開発の潜在的可能性につながっています。

特に、市役所を中心とするシティゾーンは、Aが市役所・キラリ☆ふじみ、Bがららぽーと、C、Dが手付かずに残っています。C、Dゾーンはほとんど田んぼですが、これだけの場所で公共施設や商業施設を立地させることができる場所は宝ものです。たとえば、老朽化した市役所をDゾーンに移し、空き地を有効利用するなど、Cゾーンには農業観光的なにぎわいが作れる場を検討してもよいでしょう。C、Dゾーン奥には新河岸川が流れており、上流の川越、ふじみ野市や下流の志木市と協力して、かつての舟運を再現するなども面白いですね。

それから水谷地区の国道浦和・所沢線と柳瀬川沿いに、今まで手をつけずにきた田んぼが110ヘクタールくらいあります。これもダイヤモンドの原石です。逆に今首都圏30キロ圏であのような広い土地を持つ市はない。すべて開発すべきというわけではありませんが、そのような場所を持つ強みがあります。

―富士見市内で好きな場所はどこですか。

星野 私は、車で浦和から帰る時、荒川にかかる羽根倉橋を渡ります。橋自体は富士見市ではありませんが、橋の上から富士見市側を望んだ時見える富士山は素晴らしい。特に、秋から冬の夕方に見る富士山の姿はすごいです。

富士見市ですから、他にも富士が見えるポイントを紹介し、「富士見テラス」を整備できればと思います。

―趣味は。

星野 学生時代からバンドをやっていましたが、今は古いギターがあるだけです。あとは時間があれば小旅行に、自分を非現実の世界に連れて行きます。長野県の玉村豊男さんのワイナリーは、休みが取れればよく訪れます。

(2015年11月取材)

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