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江戸期坂戸を統治した 島田家菩提寺 永源寺 賑やかな花まつり、花魁道中も

坂戸駅近く広大な境内を擁する曹洞宗の寺院、永源寺。江戸時代、地域を統治した島田家の菩提寺だ。毎年5月5日、花まつり(釈尊降誕祭)が開かれる(2020年は中止、21年は未定)。沿道を含め露店が立ち並び、あでやかな「おいらん道中」も繰り広げられ、数万人の人出で賑わう、全国でも有数の花まつりだ。山﨑崇明住職に由来をお聞きした。


旗本島田家の菩提寺として建立

―そもそも永源寺はどういうお寺ですか。

山﨑 徳川家康が江戸に出てくる際、腹心の配下であった三河武士島田次兵衛尉重次が坂戸とその近村を領有し統治しました。1592年に、島田家の菩提寺として建立されたのが永源寺です。

―島田家の屋敷はどこにあったのでしょうか。

山﨑 調べてみると、寺の周りに濠があったようで、その痕跡も一部残っています。おそらく寺と屋敷は一緒にあったのではないかと考えています。


島田家墓所

―境内は広いですね。

山﨑 現在は1万坪ですが、昔はよその土地を踏まずに隣町まで行けたといわれています。明治以降も、戦後の農地解放前は、今の坂戸駅前まで寺の敷地だったようです。

―島田家は江戸時代を通して領地としていたのですか。

山﨑 島田家は直参の旗本で、長崎奉行や江戸の北町奉行といった要職にも就いております。その力を示すためか、町中には他の寺はないんです。

―永源寺は曹洞宗の寺院としても格が高いようですね。

山﨑 第4世住職の鉄心御州大和尚は大本山永平寺の禅師として宗門最高の栄誉に昇進されています。

―山﨑住職は。

山﨑 私は32代目になります。

花まつりに中国から伝来した誕生仏を公開

―花まつりを大規模に行うようになったのは。

山﨑 島田家3代の出雲守忠政が長崎奉行をしているとき、中国から伝来した誕生仏の献上を受け、寛文2年の震災から寺が再興される際誕生仏を寄進、そこからお祭りが始まったとされています。釈迦様の誕生の姿を仏像にした誕生仏は15センチほどのものです。

―花まつりは当初から地域の人たちも参加するような形で。

山﨑 かつて坂戸は荒れた土地で産業は養蚕が主だったようで、蚕の時期に合わせてお祭りも行われ、甘茶をかける柄杓で桑の木に水をやるとよく育つといわれていました。ご祈祷も養蚕のご祈祷が以前は主だったんです。

―お祭りの時は、誕生仏を公開されるのですか。

山﨑 境内の中心に花御堂を作り、お像をお出しして、皆さんに甘茶をかけていただいております。

―植木市もあるんですか。

山﨑 以前は5月8、9日と2日間開かれ、当時は植木のが多く出て、近隣からそれを求めにおいでになる方が多かったようです。今は植木は一部だけになりました。

おいらん萬治高尾の墓

―おいらん道中とは。

山﨑 江戸・吉原を代表する三浦屋の2代目の名妓、萬治高尾という花魁を島田家の権三郎利直が仙台の伊達綱宗と取り合って、結局利直が高尾を射止めたんですが、高尾が病弱であったため、こちらに引き取って加療していたが、なくなったので寺の裏手に葬ったとされ、高尾の墓があります。それにちなんで、おいらんとお付の人たちが、道中歩いてまわる。昭和40年代もあったのですが、最近になり、市の観光協会が始められまして。


高尾の墓

―以前よりお祭りの規模がやや縮小したのですか。

山﨑 以前は駅前通りをずっと交通規制をかけていましたが、新しく交差する幹線道路ができ、またマンションなども建っていますので、苦情もあり、難しくなりまして1日になりました。

―維持していくのは大変ですね。

山﨑 遠いところからも皆さん歩いておいでになり、楽しみにされている方もいっぱいおられますので、なにがなんでも続けていかなくてはと思っております。

(本記事は「東上沿線物語」第29号=2010年5・6月掲載記事を2021年1月再掲したものです。写真は一部更新しました。2020年の花まつりは新型コロナウイルスのため中止、2021年は本稿執筆時点で不確定です)

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