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人力で掘った400mの坑道に 39体の観音像 洞窟観音 (高崎市)

高崎駅の西方、観音山丘陵。遠くからも見える白衣観音が有名だが、その800m程最寄りにひっそりと洞窟観音がある。呉服商として財をなした故山田徳蔵翁が、多くの人々が楽しめる霊場、楽天地を建設しようと、私財を投じその生涯の内約50年をかけて、翁が79歳の生涯を閉じるまで建設が続けられた。

山田徳蔵(1885-1964)は新潟県柏崎の出身で、新潟から縮布を背負って江戸に向かって行商する内に、高崎市の田町に定住をした。その後県内一の呉服商となり、大正時代の最盛期には大番頭、番頭60余名を抱え、支店は東京をはじめ、中国の上海、青島まで及んだ。幼いころより寺に通い信仰心の厚かった徳蔵は、築いた莫大な財力を子孫の為でなく、何か世の為人の為にと洞窟観音の建設を思い立った。大正8年着工、重機のない時代、ツルハシやスコップなどすべて人力で山をくりぬき、石を運んだ。

坑道は総延長400メートルに及び、内部は人力で掘られたとは思えぬ巨大な空間となっている。内部には藤岡市鬼石から運ばれた、見事な三波石の巨石が多数配置され、浅間山から貨車3両を貸し切って運ばれた溶岩で装飾が施されている。一周が札所巡りと同じご利益があるというコンセプトから、名工「高橋楽山」に33観音を中心に聖観音、如意輪観音、千手観音、十一面観音等の作成を依頼し、すべての作品がその背景までデザインされ幻想的、神秘的に配置されている。

洞窟は戦時中にも建設が進められた。当時、徳蔵が建設中の洞窟観音に防空壕機能をもたせ、高崎市民4000人を匿える設計に変更したことから、陸軍より「模範的民間防空壕」の称号を拝命し、建設資材を軍より配給された。現在でも発電室や物資貯蔵室、貯水池等が洞窟内に残っている。

洞窟観音となりには、徳蔵の住まいだった「山徳記念館」と日本庭園「徳明園」も公開されている。洞窟掘削時に出た残土を盛って造園された徳明園は、高低差が特徴で、明治神宮庭園を造園した新潟の老舗「後藤石水」による池泉回遊式庭園、枯山水庭園、苔庭と石庭が配されている。庭全体に無数の三波石が配され、高橋楽山の作品も各所に散りばめられた庭園には「笑い閻魔と笑い鬼」等、商人徳蔵ならではの、趣のある日本庭園となっている。秋の紅葉は特に有名。山徳記念館内は翁の遺品や歴史資料、徳蔵のコレクション、北沢楽天の作品が展示されている。

(取材・撮影は2018年9月)

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